霊地巡礼 東谷山・尾張戸神社

尾張戸神社
宮簀媛命の勧請と伝えられ、古代豪族・尾張氏と深い関係をもつ古社である。天火明命、天香語山命、建稲種命の三柱の神を祀る。

巨星と見紛うばかりの明るい流星

正確な年を覚えていないのですが、平成の御代、確か平成二十二年、あるいは二十三年あたりのことです。高蔵寺方面からこの山を見ると、なんと天空から巨星と見まがうばかりに明るい流れ星が現れ、ちょうどこの山の頂き付近で消えたのを目撃したことがありました。
確か冬の季節であったと記憶しています。あまりにも神秘的な体験であったため、家に帰って家族に興奮して話をしていた情景が思い返されます。

確かその週の週末だったと思いますが、初めてこの山を訪れ、ここが古墳時代の文化の中心地で、古くから残る古墳の跡が残る場所であるということを知りました。それから何となくご縁を感じて何度か参詣するようになりました。

ある時、南社で犬を散歩しに来ていた壮年の男性とすれ違ったのですが、その方がどういうわけか「ここはヤマトブソンのゆかりの地であるということだ。」と話しかけてこられたのです。ヤマトブソンとはすなはち、日本武尊のことであります。確かにこの辺りには日本武尊の伝説が伝わっており、東谷山につながる尾張北部山系の内々神社(愛知県春日井市)でも日本武尊の伝説が残っています。

江戸時代、中山道(東山道)から離れ、尾張城下に向かう脇街道は木曽街道とも呼ばれた上(うわ)街道と善光寺道とも呼ばれた下(した)街道の2本ありました。上街道は現在の愛知県道102号(旧国道41号)で、参勤交代で尾張藩主が中山道を利用する際の重要な官道であったのに対し、下街道は現在の愛知県道508号(一部国道19号・旧国道19号)で、庶民の道として利用され、伊勢参り、御岳山や善光寺参りをはじめ、峠越えの少ない道として多くの利用者がありました。これらの街道は古代から利用されていた道が整備されたものです。古代の美濃と尾張を結ぶ道は下街道であり、現在の内津と勝川を結ぶ旧道です。この道は内津峠を越えて愛知県春日井市に入り、道沿いに日本武尊関連の地名や史跡を見ることができます。
 ただ、日本武尊の時代に整備された街道はありませんでした。大和から東国を支配するための道として古東山道がありましたが、信濃国から尾張に向かう道は整備されておらず、人が往来する道はあったものの、それは街道というような道ではなかったと思います。尾張に入る際は山越えがあり、そこは獣道にだったかもしれません。

【引用】日本武尊伝説 日本武尊の足跡を追いかける

日本武尊はことによるとこちらの東谷山にもいらしていたのでしょうか。真偽のほどはわかりません。ただ、興味深くその男性の話を聞くうちに、自然と流星の話になって、なんとその方も同じ日の夜にあの巨大な流星を見たのだとおっしゃるのです。やはり私の見間違いではなく他にも目撃された方がいらしたこと驚いたことを覚えています。

齋庭稲穗の神勅

第八帖 (八五七)
四つ足を食ってはならん。共食いとなるぞ。草木から動物生まれると申してあろ。臣民の食べ物は、五穀野菜の類であるぞ。
『一二三 ㊃』 五十黙示録 第二巻 碧玉の巻

私にとって神示を実践する上での課題の一つは食です。皆さんはどうですか?
私は『四つ足を食ってはならん。』という神様からのお言葉がずっと昔から気になっているものの、なかなか肉食をやめることができません。そればかりか、たまに家族で焼肉に行くのが楽しみの一つであったりもします。
この数年は在宅勤務で時間もあるので、自分で料理ができるようになってもっとこだわりのある食生活ができるよう身魂磨きに励みたいものです。

さて、このほど、『日本書紀』の中で、天孫降臨に際して、天照大御神様が御孫の瓊瓊杵尊らに下した御神勅(三大神勅)の中に、「齋庭(ゆにわ) の稲穗の神勅」というものがあることを知りました。

『日本書紀』神代下  第九段一書(二)
是時、天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰「吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。」復勅天兒屋命・太玉命「惟爾二神、亦同侍殿內、善爲防護。」又勅曰「以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒。

【原文】
是時、天照大神、手持寶鏡、授天忍穗耳尊而祝之曰「吾兒、視此寶鏡、當猶視吾。可與同床共殿、以爲齋鏡。」復勅天兒屋命・太玉命「惟爾二神、亦同侍殿內、善爲防護。」又勅曰「以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒。

【大意】
この時、天照大神は手に宝鏡(たからのかがみ) を持ち、天忍穂耳尊に授けて、「吾が御子よ、宝鏡を視ること、まさに(なお)我を視るが如くすべし。與ともに床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」と祝福した。
また、天児屋命・太玉命に、「(これ) (いまし) 二柱の神、(また) (とも) に殿の内に(さぶら) いて、善く防ぎ護るをいたせ」と勅す。
また、「() 高天原(たかまのはら) にきこしめす斎庭(ゆには) (いなほ) (もっ) て、また() (みこ) にまかせまつるべし。(齋庭稲穗の神勅)」とある。
『日本書紀』神代下 第九段一書(二)

謹んで天照大御神様の御恩寵を拝し奉るとともに、畏くも高天原で召されている神聖な田の稲穂を授けられ、遥かな神代の時代から現代に至るまで、瑞々しい稲穂が末永く実る美しい国、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに) を受け継いでこられたのは、まさに御歴代の天皇の御聖徳よるものと仰ぎ奉ります。

「斎庭の稲穂」今野可啓 神宮農業館蔵

このような歴史を知るにつけても、まことに神示のお言葉は尊く、私ども臣民は天孫降臨の神代より続く天照大御神様の御神勅を戴き、改めてお米のありがたさを感じる次第であります。

尾張の十の山

直会もまつりの中ぞ。朝の、夕の、日々の人民の食事、皆直会ぞ。日の仕事、皆まつりぞ。息すること、この世の初めのまつりぞ。まつれまつれと申してあろが。
尾張の御用は始めの御用ぞ。祭りの御用ぞ。尾張の十の山に祭りくれよ。世に告げてくれよ。
『一二三㊀』 十二巻 夜明けの巻 第八帖(三二八)

さて、この尾張の十の山というのはどこをさすのでしょうか。
まず、尾張地方で「富士」といえば、その名のごとく尾張富士を浮かべますから、尾張富士大宮浅間神社は含まれるのではないでしょうか。
また、岡本天明伝には以下の記載があります。

名古屋の神社といえば、一般には熱田神宮や、尾張一ノ宮の真田神社を思い浮かべる。だが、大本での尾張の国魂・産土社は、春日井・志味の東谷山の尾張戸神社を指す。東谷山は標高が三〇〇メートルほどで、古くは名古屋平野がまだ海だった古墳時代の中心地で、山頂には熱田神宮の奥宮といわれる尾張戸神社が鎮座して磐座もある。
(中略)
戦後、名古屋の浅井作左衛門や岐阜の林松治(はやしまつじ) 等により、数度にわたり「オワリノ十ノヤマ」の祀りがされた。十の山の中心は東谷山や、尾張三山と呼ばれる尾張富士・白山・本宮山等があてられ、周辺の十カ所の山に神事がなされた。 『岡本天明伝』黒川柚月

これらに連なる尾張北部の山としては春日井三山として知られる弥勒山・大谷山・道樹山がありますが、弥勒山はその名前からしても含めないわけにはいかないのではないでしょうか。

尾張の御用、御苦労であったぞ。奥の奥のこと、仕組どおりになりている。臣民、心配 するでないぞ。一の宮は、桜咲く所 へ造れよ。分かりたか。天之日津久神奉賛会でよいぞ。意富加牟豆美神と申しても祭りくれよ。祭り、国民服(戦時中に着用した成人男子の洋服)の左の胸に八垂れの紙垂二本つけて、絹の紙垂つけて当分奉仕してよいぞ。道場は、一の宮と一つ 所でよいぞ。 『一二三㊀ 』著・岡本天明/編・奥山一斎

友を求む。

元の元の元の神は何も彼も終わっているのであるぞ。終わりなく始めなく弥栄いやさかえているのぞ。
友つくれよ、友つくることは己つくることぞ。広めることぞ。
己を友の心の中に入れることぞ。
皆我われの目的たてに来ているぞ。それでは思惑たたんぞ。
御光が愛ぞ。真ぞ。愛はまぞ。真は言ぞ。これを真というぞ。まことは生きているぞ。
三千世界の生命いのちぞ。
和つくれ。和はむすびぞ。何もかも生まれるぞ。息するぞ。
自分で勝手にしておいて親神を怨うらんでいるぞ。
この巻から人民の道しるべであるぞ。
近いことから知らすぞ。
この神示ふで出たら、すぐ血としておいて下されよ。
そなたの為ためであるぞ。
そなたの為ためは人の為ため、世の為ため、三千世界の為ためであるぞ。
この巻 黄金の巻。
心の眼ひらけよ。

『一二三③』黄金の巻

尾張の御用

日月神示の説く弥勒の世が近づきつつあることを益々多くの人が予見し、期待しています。新しい時代の価値観を受け入れる人の数が日に日に増しているのを感じています。世界中で新しい時代の幕開けを求める声が高まっています。
神示の導きによって、新しい社会の実践に挑戦しようとされる方も決して少なくないはずです。天之日津久神奉賛会は、弥勒の世を拓くために、尾張の御用に奉祀させていただくことを目的に、日月神示の実践を行います。同じ目的の方、是非協力してゆきましょう。さしずめ私は尾張の山で重要と思われるポイントを巡礼しています。もし一緒にお祀りをやってくださる方いらしたら協力してやりませんか。

サイトを開設しました

新しい時代の訪れを多くの人が予感しています。益々多くの人々が時代の変化に気づき、期待しているのを感じています。光り輝くミヨクの世を拓くために、何か貢献できることが少しでもあればと思い、このサイトを開設しました。

特にここでは、日本が誇る大預言書『日月神示』の中から、「尾張の御用」として記される神様からのお言葉を探求してゆきたいと考えています。
同じ目的、志を持つ方がいらっしゃれば是非ともご縁を頂ければと思っています。
サイトのタイトルは、天之日月神奉賛会(あめのひつくのかみほうさん) としましした。日月神示 黄金の巻 第二帖で神様がおっしゃっていますからね。すでに同じ志を持つ先人が昭和の御代に同じ名前で奉賛会をはじめていたのでしょうね。
私の手元にある資料では、天地の会(あめつち) の会なるものがあったようです(どなたか詳細をご存じであれば情報頂けると幸いです。)。

第二帖(二五九)
筆読めば何もかも分かるようになっていること、分からぬか。尾張(おわり) の御用、御苦労であったぞ。奥の奥のこと、仕組通りになっている。臣民心配するでないぞ。一の宮は、桜咲く所へ造れよ。分かったか。天之日津久神奉賛会(あめのひつくのかみほうさんかい) でよいぞ。意富加牟豆美神(おほかむづみのかみ) と申しても祭ってくれよ。祭り、国民服の左の胸に八垂れのシデ二本付けて、絹のシデ付けて当 分奉仕してよいぞ。道場は、一の宮と一つの所でよいぞ、飯依(いいより) の御用、丹波(たんば) の御用、御苦労であったぞ。皆の者いよいよだぞ。今から弱音では、何もできんぞ。春負け、夏負 け、秋負け、冬負け、ハルマゲドンと申してあろうが。いよいよだぞ。揮締めよ。ぐるんだぞ。
二月二十六日 日月神

『一二三 ㊀  岡本天明・著/奥山斎・補訂』

日月神様は「一宮は、咲く所へ造れよ。」とおっしゃっておられます。尾張に桜の名所は多くありますが、日月神示の各所から奥山に祀れとあることから、私はこれを犬山の桃太郎神社を指すのではないかと推測します。桃太郎神社は、ご鎮座は昭和五年。お名前の通り桃太郎伝説で有名な神社ですが、鬼退治をした桃太郎は桃の実から現れた大神実命(「意富加牟豆美神」(おほかむづみのかみ) とも書く。)であると伝えられ、御祭神となっています。木曽川に面して風光明媚なこの地域は春になると美しい桜が咲き誇り、古くから桜の名所としても知られています。